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捻軍蜂起 その5

 1866年秋より、太平軍と捻軍の連合軍は、梁王張宗禹、幼沃王張禹爵率いる西捻軍と、遵王頼文光、魯王任化邦率いる東捻軍とに分れ、西捻軍は陝西に向って回族蜂起軍との合流を試み、東捻軍は湖北から四川に入って拠点確保を図りました。

 しかし、東捻軍は四川の拠点化に失敗し、1867年6月、山東に入って物資を獲得しようとしましたが、背後から清軍が東捻軍を山東に閉じ込めるべく包囲作戦に出たため、反転して脱出を試みたところに、11月中旬、湖広総督李鴻章率いる淮軍の攻撃を受けて大損害を被り、ここで魯王が戦死しました。12月、敗れた東捻軍は大運河の突破を試みたものの失敗したため、大運河に沿って揚州まで南下し、1868年1月5日、揚州東北の大運河において淮軍の総攻撃を受けて壊滅しました。遵王頼文光も重傷を負って捕えられ、誘降を拒否して処刑されました。

 一方の西捻軍は1867年1月、西安に迫り、陝甘総督(陝西・甘粛両省長官)左宗棠率いる湘軍と交戦した後、12月、陝西から山西、河南を経て直隷に入り、1868年1月には北京郊外盧溝橋に達しましたが、清軍が防備を堅めていたため反転し、山東の東昌で大運河を越え、4月、天津に迫りました(この途中で幼沃王張禹爵、淮王邱遠才戦死)。しかし、ここも堅く防禦されていたため、反転して大運河に達しましたが、既に大運河に沿って防衛線が布かれていたため、ここで7月から約2ヶ月に亘る戦闘の末壊滅し、梁王張宗禹は行方不明となりました。ここに太平天国に次ぐ規模の十数年に及ぶ捻軍蜂起は終りを告げました。


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捻軍蜂起 その4

 1865年1月まで、太平軍と捻軍の連合軍は、騎兵の機動力を以てセンゲリンチン率いる清軍を攪乱し、清軍に出血を強いました。このような状況の下、清の中央政府は湘軍の創設者であった曽国藩に出撃を命じましたが、曽国藩は勢力を温存することに努めて、熱心に戦うことをしませんでした。そのため、センゲリンチンは数千キロもの距離を縦横無尽に駆け回る連合軍を単独で追跡する羽目に陥り、疲労の極に達しました。

 5月18日、連合軍数万がセンゲリンチンの清軍1万数千を山東省高楼塞において伏撃してこれを殲滅しました(センゲリンチンも戦死)。センゲリンチンの死により、清は満州・モンゴル人から成る有力な軍を失ってしまい、以後益々漢人大官の組織した湘軍、淮軍に代表される郷勇に頼らざるを得なくなって行きます。

 それはさておき、1866年夏、清中央政府は両江総督(江蘇・安徽・江西三省長官、文正二品)曽国藩を起用しましたが、東西の2つに分かれて夫々縦横無尽に駆け回る連合軍に翻弄されるばかりで何の役にも立たなかったため、1867年末、曽国藩に代って湖広総督(湖北・湖南両省長官)李鴻章が起用されることとなりました。


捻軍蜂起 その3

 この後、捻軍は1862年にかけて太平軍との協同作戦の外、山東、河南、江蘇等を転戦しました。一方、清は1862年8月、太平天国の北伐軍を壊滅させたホルチン郡王(親王に次ぐ爵位)センゲリンチン(モンゴル人)を捻軍討伐の総司令に任命して、本格的捻軍鎮圧作戦に乗り出しました。

 1863年3月、センゲリンチンの清軍と捻軍は雉河集を巡って交戦しました。張楽行は20万の兵を集めて戦ったものの、大敗を喫して敗走途中逮捕され、24日、亳州において処刑されました。張楽行の死後、その甥張宗禹、任化邦等が指導者として抗戦を継続し、1864年春、西北から天京救援に駆けつけてきた扶王陳得才、遵王頼文光、祜王藍成春等率いる太平軍に合流して、併せて数十万の兵力となりました。

 天京陥落後の11月、太平軍と捻軍の連合軍は清軍と安徽省霍山県黒石渡において決戦して大敗、扶王は毒を仰いで自殺し、祜王は処刑されました。敗れた太平軍と捻軍は一層連携を強め、太平天国の復興を目標に掲げ、遵王頼文光を最高指導者とし、梁王張宗禹、魯王任化邦、幼沃王張禹爵(張楽行の甥、張楽行の王位を継承)、淮王邱遠才等が指導部を構成しました。


捻軍放棄 その2

 捻軍の活動していた江北は平坦な地形であり、且つ殆どの兵が乗馬に熟練していたため、機動力に優れ、清軍はなかなか捕捉することができず、1855年秋には、清軍が天京周辺と北伐軍対策に追われている間隙を衝いて、張楽行、蘇添福率いる捻軍3万が山東、安徽、河南3省の境界付近を勢力下に置きました。

 皮肉なことに、捻軍が清軍の間隙を衝いて勢力を拡大していた時、留守の雉河集を河南按察使(河南省司法担当次官、文正三品)余炳トウの指揮する郷勇(義勇軍)が襲撃し、掠奪暴行放火殺人の限りを尽して、張楽行の先祖の墓まで暴いたため、捻軍は雉河集に急行して、12月、これを奪回しました。

 1856年5月末、河南巡撫(河南省長官、文従二品)英桂(満人)率いる清軍が亳州において捻軍を破り、更に雉河集を占領したため、敗れた捻軍は南下して、交通の要衝潁州三河尖を急襲して大量の物資を獲得し、そこから雉河集に向って、清軍の陣地を夜襲、これを撃破しました。

 1857年1月、勢いに乗る捻軍が再び三河尖を占領した時、太平軍もこの地域に進出してきたため、張楽行以下捻軍主領たちと豫天侯陳玉成、合天侯李秀成(ともに太平天国後期の最高幹部)との会見が実現し、その結果、捻軍は太平天国に倣って辮髪をやめ、相互に連絡官を配置して、連携して清に当りました。


捻軍蜂起 その1

 太平天国が江寧(現在の南京)を首都として、主として江南で清軍や郷勇(義勇軍)と血みどろの戦いを繰り広げていた頃、江北でも捻軍と称される集団が活動していました。捻軍の「捻」とは、「寄り集まり」、「よりあげる」、即ち人々の集団を意味し、19世紀初頭より、捻子、捻党と呼ばれていました。

 1853年5月、太平軍が北伐を開始すると、安徽省、河南省の捻党がこれに呼応して蜂起し、北伐軍の先導を務める集団もあり、1854年4月以降、各地の捻軍が集結し、より大規模な集団を構成するようになりました。

 1855年、黄河の堤防が決壊すると、山東省、安徽省、江蘇省の多くの農民や失業者が流民となり、捻軍に加入しました。こうして大勢力となった捻軍は、同年秋、亳州雉河集に集結して、大漢国を設立し、捻軍主領の1人張楽行を大漢永主に選任し、全軍を黄・白・黒・紅・藍の「五大旗」に分けました。他にも八卦旗、水花旗、緑旗等というものもありました。

 五大旗とその主領たちは次の通りです。
 黄旗 張楽行(大漢永主)
 白旗 龔得樹(軍師)
 黒旗 蘇添福
 紅旗 侯士偉
 藍旗 韓奇峰
(ここまで)


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歴史の常識を疑う@やましろや

Author:歴史の常識を疑う@やましろや
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