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義和団の乱 その4 ~北京陥落~

 清は各国に宣戦布告して以来、各地から北京へ兵力の結集を図り、各国軍が北京城外に迫った1900年8月13日時点で、北京には皇帝親衛軍たる八旗、神機営、虎神営の兵22,500に加え、甘粛提督(省軍管区司令官、武従一品)董福祥(回族)の武衛后軍6,000、軍機大臣(宰相)栄禄(満人)の武衛中軍10,000、浙江提督馬玉崑率いる武衛左軍の残存兵2,000、計約40,000の外、義勇兵や義和団を合せると約70,000の兵力がありました。

 しかし、8月13日に各国軍が北京城外に達するや、政府高官らはわれ先に逃亡し、15日には最高実力者西太后自身が約100人の従者とともに西方へ逃亡したため、清軍も一気に崩れて逃亡し、部署を離れなかったのは僅かに武衛后軍と義和団のみという有様でした。

 そのため、各国軍は14日には外城を占領して内城に突入、15日には内城も占領して、ここに義和団の乱は清の敗北に終りました。

 乱後の講和会議において、西太后は全ての責任を高官たちに押し付け、自分は無傷で済ませようとしたため、各国の言いなりに賠償したのはもちろん、義和団員を片っ端から逮捕処刑したばかりか、ロシア軍による義和団員の大量摘発と処刑も黙認しました。このように、義和団の乱はシナにおける「愛国無罪」の始まりで、その末路は悲惨極まりないものでした。


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義和団


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