スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

広東天地会蜂起 その3

 しかし、このとき既に湘軍をはじめとする郷勇が広西に増援されており、まず団練が南寧を奪回し、定北王梁昌は逮捕処刑、平西王区潤は部下に殺害されました。

 1858年、鎮南王陳開と平靖王李文茂が東西両路から桂林を目指しましたが、鎮南王は悟州が危険な状態となったため撤退し、平靖王単独で桂林を攻撃することになりました。このあたり、既に平靖王が半ば自立した勢力であったことが窺えますが、5月、平靖王の成軍は湘軍の攻撃を受けて敗れ、平靖王自身も負傷したため、柳州へ退却し、その月のうちに悟州は陥落し、翌月には柳州も失陥して、平靖王は山中へ逃亡し、そこで病死しました。

 こうして、大成国の5王は鎮南王陳開を残すのみとなりました(平東王梁培友は1857年団練討伐中に戦死)が、それでもまだ10万以上の兵力を有し、十数の州県を支配下に置いていました。

 1858年11月、鎮南王率いる成軍が柳州を急襲してこれを攻略し、続いて悟州を攻撃しましたが、既に清軍数万が防備を固めていたため、翌年4月、却って敗れて秀京へ撤退しました。

 1860年1月、湘軍、団練数万が柳州を攻略し、翌年8月、周到な準備を整えて秀京を攻撃しました。成軍もよく防戦に努めましたが、遂に力尽き、21日、鎮南王以下成軍は夜陰に乗じて脱出し、翼王石達開率いる太平軍に合流しようとしましたが、果たせずに団練に捕えられ、潯州において処刑されました。

 その後、隆国公黄鼎鳳が残存勢力をまとめて戦いを続けましたが、1863年5月、最後の拠点小平天塞が陥落して、10年近く続いた天地会の蜂起も終りを告げました。


スポンサーサイト

コメント

Secret

プロフィール

歴史の常識を疑う@やましろや

Author:歴史の常識を疑う@やましろや
秘密結社、ミニ国家、古代文明、、、
不思議なもの、謎の多いものを取り扱って行きます。

中国の歴史歪曲、韓国の歴史捏造2
もよろしく!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。