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捻軍放棄 その2

 捻軍の活動していた江北は平坦な地形であり、且つ殆どの兵が乗馬に熟練していたため、機動力に優れ、清軍はなかなか捕捉することができず、1855年秋には、清軍が天京周辺と北伐軍対策に追われている間隙を衝いて、張楽行、蘇添福率いる捻軍3万が山東、安徽、河南3省の境界付近を勢力下に置きました。

 皮肉なことに、捻軍が清軍の間隙を衝いて勢力を拡大していた時、留守の雉河集を河南按察使(河南省司法担当次官、文正三品)余炳トウの指揮する郷勇(義勇軍)が襲撃し、掠奪暴行放火殺人の限りを尽して、張楽行の先祖の墓まで暴いたため、捻軍は雉河集に急行して、12月、これを奪回しました。

 1856年5月末、河南巡撫(河南省長官、文従二品)英桂(満人)率いる清軍が亳州において捻軍を破り、更に雉河集を占領したため、敗れた捻軍は南下して、交通の要衝潁州三河尖を急襲して大量の物資を獲得し、そこから雉河集に向って、清軍の陣地を夜襲、これを撃破しました。

 1857年1月、勢いに乗る捻軍が再び三河尖を占領した時、太平軍もこの地域に進出してきたため、張楽行以下捻軍主領たちと豫天侯陳玉成、合天侯李秀成(ともに太平天国後期の最高幹部)との会見が実現し、その結果、捻軍は太平天国に倣って辮髪をやめ、相互に連絡官を配置して、連携して清に当りました。


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